名詞構文 (Noun Structure)

名詞構文とはあまり知られていない英語文法用語だ。が、どうやらその存在は、人間が言語にそう在って欲しいと願っているより、言語とは遥かに曖昧な存在であることを示す例証のようだ。

英文法として説明をするより日本語として先に説明したほうが判りやすい。例えば「母の教育」と言うと何も不自然さはないようだが、よくよく考えるとはっきりしないのである。
「母が~に教育する」のか
「~が母を教育する」のか
「母の教育」ではどちらなのかが判らないのである。問題は所有格の助詞「~の」にある。前者は所有格の母を主語に使った意味で、後者は所有格の母を目的語にとっている。「教育する」を「教育」という名詞にして扱うから名詞構文というようだ。それは単に文法の名前の所以だが、問題は何故そういう使い回しが存在し続けているのか?だと思う。曖昧さを避けるためにこういった表現は止めよう、ではなく逆に言葉の曖昧さ保つためにこういう言い回しが存在し続けているようにみえるのだ。

最初に言ったようにこれは英文法の話だ。"the mother's education"英語でも日本語でも同じ曖昧さが生じる。もしかしたらこの名詞構文自体が以前からわたしが主張している日本語のクレオール化の証拠かもしれない。英語も日本語も前置詞や助詞を変えればもっとはっきりした意味が表せるのにも関わらずだ。
ちなみに英語はこんな区別があるよう。
the mother's education(母が教育すること)
the education of the mother(母を教育すること)
ということはこんな使い方もある。
The mother's education of her children tends to be severe.(母が子供達を教育すること...)
ただし絶対ではなくこういった傾向があるということ。

ロゴス至上主義者の綴るエクリチュールはこの名詞構文をいかように説明するつもりなのか?こういった言葉の存在自体がロゴス的判断の中止を促していると思えるのだ。曖昧さの所以は言葉が持つ媒体としての不的確さというよりはそれを使う人間が、その宙を漂う曖昧なエクリチュールに身をまかしてしまったことに始まるのではないだろうか。実際、曖昧の対極である「意思決定」こそが人間の行きついた精神病を象徴する、私はそう見ている。

以前わたしは何人か心の病気を持つ生徒を見たことがある。今でも夜な夜な彼らがわたしにメールを送りつけてきたのを思い出す。その中身にはいつも不思議と共通点があった。彼らは毎回、今日は何かしらを決定したと送ってきたのだ。どこかの医者がそんな治療法を考案して、自分の決定を誰かに伝えなさいとでも、教えたのだろうか?正直わたしには彼らの意思決定が、単なる強迫観念によって生み出されるものとしか思えないのだ。それを決めたからといって何になるのだろう。そして暫くわたしが返事を書かないと、彼らはもう二度とわたしにはメールは出さないと意志決定を下してくれる。そう、放っておけば彼らは簡単に自滅してしまう。決定という強迫観念を継続するがゆえの自滅である。

取りとめなく書いてしまった…ように思えるかもしれない。でも人間は核ミサイルの発射ボタンを押すという決定より数百倍も賢い言語という判断中止・エポケーの方法を持っているのではないのかと...ふと思ったわけである。

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