「人間が樹立する事物間の絆は、事物に先立って存在し、事物を決定する働きをなす。...まず在るものは視点だけであって、人間はこの視点によって二次的に事物を創造する。」(ソシュール)
で、中国ではそのドーム型を蓋と言う。頭蓋骨の蓋、丸い天蓋を表す。さらには「然るべき蓋の世界」となると蓋然、すなわち確率になる。私が疑っていること何か判る?もしかして人間が見るこの蓋の世界の中では人間自身が確率を支配しているのじゃない?。。。
量子力学では「シュレディンガーの猫」というパラドックスがある。世の物質の全ては原子や分子より小さな粒子でできている。そして人間が物質を見るには光が必要で、しかし光自体も小さな光子という物質でできている。ということは不思議な事が起きる。人間が物質を見ようとするとその時点で小さな粒子達は光子によって弾かれてしまう。人間は、もうすでに元あった形とは違う粒子達あるいはそれによって構成された物質を見るということになってしまう。。。よって毒薬の入った箱に入れられたシュレディンガーの猫は人間がその箱を開けるまで、生きているか死んでいるか判らない。というより、実は人間がその箱を開けた時点で決定される。
中国四千年の歴史から生まれた言葉は伊達ではないでしょう。歴史によって磨かれた言葉は人間の智慧そのものだったりする場合があるよね。例えば英語のアブソリュート(absolute)という言葉「絶対の」という意味の形容詞だけど、アブソリューション(absolution)という名詞になると「許し」になる。私だったら世の中に絶対は無いんだと解するな。で、また話を戻すと確率とは数字を使った数学的概念で宇宙のどこでも通用する普遍性を持つ、はずだよね。だったら何故中国人は確率に蓋という閉ざされた空間を与える必要があったの?私にとって蓋とは人間が見る世界とそのままイメージ的に重なるんだよね。
(これは2015-03-26アメブロDeity Cliqueに投稿した記事の修正移植です。)